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セルフ・ガバナンスのためのグランド・デザイン
当然のことながら、明日に迫った(すでに今日だけど)選挙の話題がインターネット上を賑わせているのだけれども、僕もそれなりに関心を持って、ニュースを聞いたり、新聞を読んでいるのだけれども、まあ、僕の意見はどうでもよい。ちょっと今回の解散で興味を持って調べたことから、面白いと思ったことについて書こうと思う。

今回の衆議院解散は郵政民営化法案が参議院で否決されたことによるものである。衆議院では可決されているのにもかかわらず、郵政民営化法案を理由に衆議院を解散することには、異論もあるようである。僕としては、衆議院の解散権は内閣総理大臣にあり、いつ解散するかは内閣総理大臣の裁量にゆだねられていると信じていたので、この異論の方に違和感を感じていたのだが、法律の専門家の多くは完全に裁量にゆだねられているとは考えていないようだ。

以下で書くことは、自分なりに調べたり、知っていることから考えたりしたことなので、法律の専門家から見れば笑っちゃうような事実誤認が含まれているとは思うのだけれども、そこは素人なので、笑って済ますか、コメント欄で指摘して欲しい。
そもそも、現行憲法の下での衆議院解散には7条解散と69条解散とがある。7条には天皇は、内閣の助言と承認を得て、国事行為として衆議院を解散できると書いており、69条には内閣は衆議院の内閣不信任案の可決を受けた場合、総辞職か衆議院を解散するかのどちらかを選ばなければならないと書かれている。それで、内閣が自らの決定で衆議院を解散する場合を7条解散、内閣不信任案の可決を受けて解散する場合を69条解散と、便宜上呼んでいる。便宜上というのは69条の規定を適用して解散する場合も、7条に記された天皇の国事行為として解散されるわけだから、7条が関係ないわけではない。でも、細かいことを除けばこの分類は分かりやすい。

さて、日本国憲法はGHQによって草案が提示され、内閣が修正をして内閣案とし、衆議院、貴族院がさらに修正して可決して成立したものであるが、GHQ統治下である1948年の吉田茂内閣の下での解散の際に、GHQは7条解散を認めない立場を取った。すなわち、内閣が衆議院を解散できるのは内閣不信任案を可決した場合のみであり、7条にかかれば天皇の国事行為としての衆議院の解散は、69条の規定にのっとって内閣不信任案を可決された内閣が衆議院の解散を選択した場合の手続きを示したに過ぎないという立場を、GHQは採用していた。そのため吉田内閣は野党に内閣不信任案を提出してもらい、それを可決させた上で解散するという手続きを取った。

しかし、現在の日本人はこのような考え方を採用していないし、学校でもこのような制度は習わない。このことが確実になったのは、苫米地裁判として有名な最高裁判所判決が出たためである。この判決で、最高裁判所は内閣不信任案を可決されていない内閣が、7条のみを根拠として衆議院を解散する権限があることを、事実上認めた。事実上認めたというのは、7条のみによって衆議院を解散することは違憲であると申し立てた苫米地さん(元衆議院議員)に対して、そのような判断は「裁判所の審査権に服しないもの」という多数意見の理由により却下したからである。

実のところ、この問題は重要だと、僕には思える。おいおい、何言ってんだよ、7条解散は事実上認められて、長い年月が経っている。いまさら、7条解散違憲説なんて、法学者の馬鹿げた議論のための議論ならともかく、現実的にはナンセンスだろ、って声が聞こえてくるし、まあ、僕も本心ではそう思わなくもないのだけれども、1点だけ書いておきたいことがある。それは、法律の解釈では立法者の意図が大切だということだ。現実は変わっていくので、法律の条文は、現在の技術、社会の状況によっては意味が変わってくる場合がある。その場合、法律コードの解釈として立法者の意図を正しく解釈するということは、一理ある考え方だと思う。常にそれが正しいとは限らないという留保は必要だけれども。コンピュータへの命令コードは環境が変われば、エラーを吐いて処理を止めるかもしれないし、そうあるべきものかも知れない。しかし、社会における法律コードはエラーを吐いて処理を止める訳にはいかないケースもある。ような気がする。このケースでは7条解散は立法者(の一部)の意図としては出来ないと考えていた可能性が高い。それは、この国の統治のあり方のグランド・デザインとして、一考の価値はあったのではないだろうか。

ふう、やっと本題に入れそうだ。最高裁判所はこの問題に対して、多数派の最高裁判事は「裁判所の審査権に服しないもの」として判断を避けた。細かい部分は判決を読んでもらうことにして、僕はこの多数派の意見は間違っていると思う。少数派として列挙された意見のほうが理解しやすい判断だと思う。多数は意見のような「高度な政治的判断」を裁判所が避けるべきとする論拠を「統治行為論」と言うらしい。「統治行為論」自体はさまざまな国で議論されているが、もちろんその国の制度によって内容は少しずつ異なる。このような考え方は、必ずしもすべての法学者、法律実務家に支持されているわけではないことは、当時の最高裁判事の4人がこの判決の理由を違えていることからも分かる。

「統治行為論」という考え方に一番違和感を感じるのは、司法が「統治行為」から独立でいられるという考え方を示しているように思えるからだ。これは完全に馬鹿げた考え方であるように見える。なぜならば、われわれの社会は、立法権、行政権、司法権が独立した形で相互にチェックをしながら、セルフ・ガバナンスする社会であるべきだからだ。司法は「統治行為」に関与せずにはいられない存在だし、正しい形でするべきなのだ。

まあ、もう少しつまらない形で言うならば、法律家たちは、自分たちの司法権を自主規制することで将来の違憲判決の権威を高めようとしているように思える。が、これは完全に間違ったメッセージを送るだろう。将来、彼らが言う基本的人権が侵されるような重大な事案に違憲判決を出したときに、「統治行為論」は無意味な混乱を招く可能性がある。立法府や行政府は、そして立法府の背後にいる選挙民も、歴史的経緯を盾に司法府の越権行為と批判することができるかもしれない。

当時の裁判官小谷勝重、奥野健一の意見の通り、もし反対の結果が憲法の解釈上成立するのにもかかわらず、その判決を放棄することは「憲法八一条の明文に照し裁判所の職責に反する」と言うべきである。7条解散が認められるべきかどうかよりも、この判断を放棄することは問題が大きい。司法府は裁判所が判断できる要件を備えた訴訟に判決を下すことは、権限であるとともに義務でもある。この行為を通じてわれわれの社会のセルフ・ガバナンスを実現できるというのが、この国の憲法に示されたグランド・デザインなのだから。

この判決だけが問題なのではなく、最高裁判所の判断には問題がある判決がいくつかある。もちろんそれらを正していく判決が将来出てくる可能性がある。それを導く道も国民に開かれており、その制度を正しく使うことも国民の責任の一つであると考える。
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